言いたいこと言うとこ

生態系保全について研究する大学院生が言いたいこと言うとこ

アンチバンビシンドローム

最近Twitterをやっていると野生動物に関する記事やツイートをよく目にするのではないだろうか?

つい先日には、「イノシシが福岡の都市部に侵入、警官に追いかけ回される。」といった、市街地にイノシシやシカが入ったというツイートが流れてきた。

シカやイノシシは個体数が増えすぎており農作物被害が出ているなど、地域によってはシカやイノシシは自治体がお金を出すような駆除対象なのである。不幸かな、迷い込んだこのイノシシは今頃牡丹鍋だろうと思ってリプライの欄を覗いたところ、あいつらがいた。

 

 

「このイノシシはかわいそうだから殺さないで山に返してあげてほしい!」

 

 

このような、野生動物が迷い込んだというニュースには必ずバンビシンドロームに侵された人たちが生息しているのである。

 

バンビシンドロームバンビ症候群)とは、

動物自身がもつ行動規範を擬人的に捉えすぎ,動物に対して人間自身の価値観を押しつけてしまうような一連の態度。「動物は人間のような感情をもっている」「動物は人間を邪悪な存在と見なしている」などと思いこむ状態。 〔作家フェリックス=ザルテン(Felix Salten)の小説やその映画化作品「バンビ(Bambi)」が語源〕

引用:三省堂提供「デイリー 新語辞典」より

 

このような状態は社会現象にもなり、

 

アメリカではディズニーの映画『バンビ』の影響により,シカ猟が非難され,シカの個体数管理が困難になった時代がある(Bailey, 1984).このような市民による感情的な拒否反応は「バンビ・シンドローム」とよばれ,野生動物の管理を行ううえでは常に発生する現象である.ひとつの例を紹介すると,サンフランシスコ湾にエンジェル島という広さ260 haの小さな島がある. (中略) この島にオグロジカが導入されて増加し,1966年までに100頭をこえ,飢えるようになった.そこで50頭が射殺されたが,市民から反対運動が起こった.そのためしばらく保護の方針がとられ,1972年には227頭までになったが,これは島の環境収容力を上まわるため,56頭が餓死した.

出典: 哺乳類の生態学⑤ 生態 高槻成紀 著 東京大学出版

※環境収容力とは、その環境にその種が継続的に生息できる生物の量

 

ということがあった。

ここからわかる通り、バンビシンドロームによる住民の考えは"シカを射殺するなんてバンビの映画と同じだ、かわいそう"というただそれだけから生まれたものであり、その先シカが餓死によってじわじわ苦しみながら死んでいくといった状況の予測などはしていない。

 

ここで、映画バンビ(1942)についてよく知らない人へあらすじを書いておこうと思う。

 

ある春の朝、森の王様の子供としてバンビが生まれた。バンビは仔兎のタンパー(とんすけ)やスカンクのフラワーと友人になり、また牝の仔鹿ファリーンとも仲良しになった。夏、秋、冬と季節を経てバンビはすくすくと成長したが、その冬に母は人間に殺されてしまった。 大人になった春にバンビはファリーンと恋に落ちるが、晩秋再び人間が森に押し寄せ、その夜キャンプから出た火は森を包んだ。妻のファリーンを助けたバンビは、翌朝川の中洲でようやく彼女に再会する。また年はめぐり、ファリーンは双児を産み、バンビは森の王の地位を継いだ。

引用:Wikipedia "バンビ(映画)"より

 

この話からすると、人間は悪であり野生動物の敵であるという考え方になるのは当然であると思う。おそらく制作者も人間による自然環境への介入からこのような考えのもと映画を作成したものと考えられる。

 

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ちなみに余談であるが、バンビを生態学的に考えるとかなり辻褄が合って面白い。

 

まず、バンビのモデルとなった動物は、ノロジカであると言われている。

なぜ言われているという書き方をしたかというと、いろいろ調べていくうちにオジロジカであるだのアカシカであるだのといろいろな媒体によって違う書かれ方がしている。これはヨーロッパだったりアメリカだったりで都合よく合わせようとしたら混ざってしまったようなので、本来の動物種はわからないということで結論づける。もし、ノロジカであれば5~7月に子を生むのでバンビ王子は5月に生まれたことになる。これは作中の、バンビが春に生まれたという描写と合致する。

次に、森の王様の子供として生まれたのがバンビ王子であるという文章から、森の王がシカ。つまり、森にはシカの個体数増加を抑制できるような高位捕食者が存在せずにシカが食物連鎖の頂点に君臨していることがわかる。これはオオカミのいなくなった日本の環境と似ている。

そして、森の雰囲気的にも平和そうなので、シカたちの栄養状態がよく、森にはしばらく撹乱が起こっていない。つまりこの森のシカの個体群数も日本と同じで、近い将来環境収容力を超えてしまう可能性がある。

つまり作中で悪者として描かれている猟師が、シカの個体数抑制のためバンビたちを狙うのは当然である。またそれ以前に、この猟師たちも自分たちの生活のために冬の食べ物や毛皮を欲しているためやむなくのかもしれない。

加えて、成長したバンビが雌鹿のファーリンと結ばれ双子を生んでいるというシーン。シカは本来産仔数が1頭であり、栄養状態が良ければ2頭生むということがわかっている。そのためやはりこの森はシカの栄養状態がよく、個体数が増え続けると、このままであれば猟師など関係なしに崩壊し個体数が激減すると考えられる。

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このようなことは日本のテレビにも多く存在している。

日本の動物を扱うテレビ番組のほとんどが野生動物を擬人化した扱いをしている。普段気持ち悪がられている昆虫ですら、ナレーションやアテレコ、妙な効果音によって視聴者に可愛いと言わせてしまう。

このような野生動物を擬人化し、可愛いものであるという考え方は人間の野生動物に対しての接近を助長するという危険性がある。

事実、北海道では、キタキツネやヒグマに対して観光客が餌をあげると言った行為によってキタキツネやヒグマの人や人里への接近が見られている。北海道に住む住民にとっては、エキノコックスをもつキタキツネや人を襲うヒグマに餌付けをするなんてとんでもないと思っているだろう。

しかし観光客はそれらが危険であるという知識がなく、餌付けを行うという行為が野生動物にも人間にもよくないのではないかということすら考えられない。なぜならキタキツネやヒグマといった腹を空かせたであろう獣に対してペットのように接することのできる自分はすごく、もっと可愛いからである。

 

私は何も動物に対して可愛いと思ってはいけないなどという考えを持っているわけではない。ペットも野生動物も可愛いものは可愛いし、私はネコ派で隙あらばネコを飼いたいと思っている。しかし、その"ペットに対して持つ可愛い"という感情を、野生動物にまで当て嵌め、“野生動物に対してペットであるかのように接すること”に対して問題視しているのである。

 

ここに一つの研究がある。

1944年にベーリング海にあるセント・マシュー島においてトナカイ29頭が導入された。敵のいない環境のためトナカイは悠々と繁殖、およそ20年で6000頭にまで爆発的に増加した(1944年→1963年でおよそ200倍の増加である)。しかし、環境収容力を超えてしまったトナカイは、貧栄養価によって体重が40%減少、主食であるコケなどの地衣類が全て食い尽くされるなど荒廃化した環境の中、1963年豪雪によって個体数が6000頭から42頭まで激減した。(Kelein, D.R., 1968)

出典: 哺乳類の生態学⑤ 生態 高槻成紀 著 東京大学出版

これは、ベーリング海のセントマシュー島という閉鎖された空間で行われた一種の実験である。

日本のような島国において、シカが猟師人口の低下や処分の反対などによって将来このようなことになってしまう可能性は十分にある。

 

食べるものがない山では木の皮を剥いで食べ、農村部に降りてきたシカは畑を荒らすため、シカによる食害のみで年に約60億の損害を農家の人は受けている。生態学者の考えとしては、シカの個体数を減らすことでシカたちはこの苦しみから解放される(この書き方は釈迦のようであるが)という考えであって、何も快楽主義者だからシカを殺そうだなんて思っている者はいない。

動物を愛して、動物を守るために生態学者となろうと決め、高校から大学、果ては大学院まで行き研究者となった生態学者が苦渋の決断で出したシカの殺処分という方法による個体数増加の抑制。人生で一番楽しい時期であろう10代後半から20代という時期を動物のために費やした、動物のために人生をかけた人の決断である。

これを何の知識もない者たちがどのように非難できるだろうか。

 

 

「必死に生きている野生動物を殺そうだなんてかわいそうだとは思わないのか!」

「シカは餌を求めて都市部に降りてきているのにそれを殺すなんてかわいそうだ!」

「都市部に降りてきたシカは殺さないで山に返してあげて!」

 

 

 

 

 

......餌がないから都市部に降りてきていると認識しているのであれば、そんな哀れなシカを餌がない山に再び戻そうなんて考えが浮かぶあなたは悪魔なのだろうか?